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2019.10.24 Thursday

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    ビートルズと私(間瀬聡)「5. 作曲開始」

    2016.10.27 Thursday

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      5. 作曲開始

       

       

       中学時代はビートルズの話が出来る友達はいなかった。周りでもギターを始める奴がちらほらいたが、大体はGLAYのコピーや、当時流行り始めた、ゆずの曲を弾き語りでハモったりしていた。その時期は、MISIAや椎名林檎、宇多田ヒカルなど新時代の歌姫がデビューし、男子はDragon Ashの影響でラップを歌ったりしていたと思う。僕はビートルズの研究を続けていた。親戚の叔父さんが、毎年ビートルズカレンダーを買ってくれたので、終わった月の写真は切り取ってポスターにして部屋に飾った。興味がないと分かっていても、仲のいい友達にビートルズを啓蒙したり、2年の時の担任の松本先生に話したりした。

       

       

       松本先生は僕が中学時代一番好きだった先生で、若い頃にタムタムというバンドをやっていたそうだ。僕が音楽に興味を持っていて、ギターを弾いていることを知ると、先生もまたやる気がみなぎってきたらしく、新しいエレアコを買って教室に持ってきた。松本先生は美術教師で、サングラスをかけて速そうな車に乗って通勤し、髭をもじゃもじゃに生やすと後期のビートルズみたいでかっこ良かった(だいぶ肥えていてニックネームはトトロだったが)。中学の頃の僕は髭なんて一本も生えず、先生のビートルズみたいな髭が羨ましく、母の眉毛用鉛筆で髭を書いてみたりして我慢した。自由選択の授業でも僕は美術をとり、ジョン・レノンのナンセンス本『In His Own Write』に大いに影響された絵を描いたり(先生は「シュールだなあ」と笑っていた)、ビートルズのライヴシーン(「Revolution」のスタジオ演奏)の絵を描いてパズルにしたりして楽しんだ。なお、松本先生とは僕が28歳の時、名古屋新栄でライヴした時に13年ぶりに再会した。ライヴを見てもらえたのはもちろん、先生が相変わらずかっこ良かったのがとても嬉しかった。

       

       

       学校での僕のビートルズ啓蒙活動(レクリエーションタイムのBGMで「Everybody’s Got Something To Hide Except Me And My Monkey」や「I’ve Got A Feeling」を流したりした)は大して効果を上げず、結局一人で音楽を追求することになった。ギターはスピッツやビートルズ、オアシスの曲をジャカジャカ弾き語りして楽しめるくらいにはなってきた。今のように、インターネットにコード進行が出回っていなかったので(そもそも僕はパソコンを使えなかった)、コードはいつも本屋の立ち読みで覚えた。自転車に乗って、御器所の元禄屋書店か五常に行き、弾きたい曲のページを立ち読みしてコードを覚え、忘れる前に急いで家に帰ってギターで弾いた。昔の中学生は苦労していたのだ。

       

       

       中学2年になる前の春休みのことだった。岐阜の小学校の時の親友が家に遊びに来た。1年ぶりの再会だったが、中学校が違うだけで、ずいぶんと感じが変わるなあと思った。僕らは当時13歳。奇妙なスピードでいびつに成長していた。

       

       

       彼、山田純平君は僕の部屋にギターを見つけると、「俺、最近曲作っとるんやて」と言って、自作の曲を披露した。その時僕はこう思った。「この曲、しょぼい!」と。ギターも歌も下手だったが、自信満々に歌う彼を見て、何かいいなあとも思った。そして、これなら俺の方が数倍いい曲が書ける、と確信して、彼が帰った次の日から、ノートに歌詞を書いて自分でも曲を作るようになった。

       

       

       最初に書いた曲を覚えている。「蝶々」というタイトルで、コードが4つくらいの、Aメロ、Bメロのみのシンプルな曲だ。当時から僕の曲はAB構成が多かった。ビートルズの影響だろう。J-POPで主流のAメロ、Bメロ、サビというのが、身体に染み込む前だった。我ながら、いいメロディにうっとりした。サビの後にはしっかり「ナナナナナー」というビートリーな部分があった。歌詞は確か「懐かしい雲の形 懐かしい草の匂い 空の気持ちになれる俺は 涙が溢れるよ」とかいうしょぼい感じで始まって、「何億もの気持ちが言葉となって〜」みたいなちょっと文学的なことを言う鼻につく感じだったと思う。誰もが通過する恥ずかしいデビュー作だ。

       

       

       それからは、コピーより自分で曲を作る方が面白くなってしまった。曲が出来るたびに、カセットに吹き込んでは自分で聴いて楽しんだ。簡単なコードだけで、自分の好きなようにやればいいので、全然ギターが上達しなくなった。適当な押さえ方で、かっこよく響く謎のコードを見つけては、俺って天才かもしれん、と喜んで自信をつけた。歌詞に関しては日本語で書いていたので、スピッツの草野さんの意味深な部分だけを安易に拝借したつもりでいい気になっていた。まったくの自己満足である。でも、その頃は自分が満足するだけで十分だった。誰に聴かれなくても、俺は曲を作ることが出来る、とわかって嬉しかった。クラスの男子が教室でグレイ的な自作曲を披露した時、「間瀬君も作曲してるらしいよ」となって、冷や汗をかきながらちょっと聴かせたことがある。「洋楽を聴いてるし、やっぱり間瀬君は凄い」と言われて少し得意な気分だった。ちなみにその時の歌は「一人で食べるピーナッツもいいな 変に欲張らなくてもいいもんね」という謎のサビだった。多分、当時の自信作だったのだろう。

       

       

       中学時代に書いた曲で他に思い出せるのは「無料のスマイル」というサイケデリックな曲だ(後にカルマセーキのライヴでも2回ほど演奏したことがある)。ナンセンスでニヒルな歌詞(「雨に打たれた運動場 何か不思議な模様 君に見せたい 理想の盛り合わせの動物のショー 意味が少ない」というサビ。サビ?)と、途中で激しい三拍子に変わるという、ビートルズ(特に中期のジョン・レノン)の影響をもろに受けた曲だった。この曲を作った時に、初めてドラムやエレキギターと一緒にやりたいなあと思った。選択授業で音楽をとった時、課題がオリジナル曲の発表だったので、友達3人で「無料のスマイル」を披露した。僕がタンバリンと歌で、伊藤君がアコギ、小栗君がエレキだ。二人とも僕に言われるがまま、下手なギターを、分けも分からず弾いた。聴いていた生徒もぽかーんとしていたし、担当の先生は「変わった曲だね」と言い、誰にも理解はされていないようだった。が、僕は僕で実験的なビートルズが理解されなかった時代と重ね合わせて、自己満足に酔った。これが、僕が初めて自分の曲をバンドという形態で人に聴かせた、ライヴ初体験である。

       

       

       この章で言いたかったのは、僕が音楽を作るきっかけは山田純平君のしょぼい曲のおかげだったということ。純平君、どうもありがとう(ちなみに彼は、2011年に娘と息子を連れて、カルマセーキのタワーレコード名古屋近鉄パッセ店インストアライヴに来てくれた。息子は幼稚園で「もぬけの殻」を歌っていたらしい)。

       

       

      (「6. ロックバンドへの憧れ」に続く)

      ビートルズと私(間瀬聡)「4. TV編集版ビートルズ・アンソロジー」

      2016.10.26 Wednesday

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        4. TV編集版ビートルズ・アンソロジー

         

         僕がビートルズにハマり出したことが分かると、父が1本のVHSを渡してきた。1995年の大晦日にテレビ朝日系列で放送された番組を録画したビデオだった(父、間瀬秀雄の趣味は、テレビ番組をビデオに録画することくらいしかないんじゃないかと思うくらいで、家族はたまに彼を間瀬ビデオと呼んだ)。それが「ビートルズ・アンソロジー」、2年前の番組だった。

         

         

         番組は5時間以上あったので、3日間くらいに分けて全部見た(テレビ用に編集されていると知ったのはずっと後のことで、本当はもっと長い)。最高に面白かった。髪型の変遷を知るだけでも楽しかった(激変するメンバーの写真と名前をその都度確認した)。それからは学校から帰ってくると僕は毎日「ビートルズ・アンソロジー」を見た。何回も繰り返しそのビデオを見て、メンバーの台詞(当時のウィットに富んだ返しも、おじさんになって振り返り語りも)を覚え、ビートルズの歴史を頭に叩き込んでいった。デビューしてから解散まで8年しかなかったとは思えないくらい濃い物語がそこにはあった。今までピンとこなかった青盤の曲も、雑学を通して聴くとまた違った楽しみ方が出来て好きになってきた。25年ぶりの新曲「Free As A Bird」も素直にかっこいいと思った。インタビューも面白く、ビートルズ4人の他にも、ブライアン・エプスタイン、ジョージ・マーティン、オノ・ヨーコという、重要人物がたくさんいることも知った。デビュー直前でクビになったドラマー、ピート・ベストは心底可哀想だと思った。

         

         

         ビートルズが映画も撮っていたことも知り、父親に聞くと、これまたダビングしてあった『ビートルズがやってくるヤァ!ヤァ!ヤァ!』、『ヘルプ!四人はアイドル』と、手書きのタイトルのVHS2本貸してくれた(ひょっとするとベータだったかもしれない)。これも馬鹿らしくてハマった。大爆笑はできないけど、これがイギリスの笑いのセンスか、と思った。

         

         

         アンソロジーと言えばCDもたくさん家にあったなと思い出し、ビデオの中で気になった曲を探して聴いてみた。曲の背景を知ってから聴くと、また違った楽しみ方が出来るなあと気づいた。もちろん、解説文の端から端まで読んだ。革命的と大絶賛されていた「Tomorrow Never Knows」も面白いなあと思えた。そこであることに気がついた。アンソロジーに入ってる曲は、オリジナルバージョンが一つもない!未発表音源集だった。騙されたと思った。なんでこんなマニアックなものを聴かされなくてはならないのか。オリジナルバージョンが聴きたくてたまらなくなってきた。うちにはビートルズのオリジナルアルバムは、『Abbey Road』と『Help!』しかなかった。その2枚をまずは聴き込んだが、やはり『Revolver』が気になる。ロックの名盤とされている『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』も聴いてみたい。解説が付いている日本盤が欲しかった。月々のお小遣いも限られているし、すぐには集められなかった。

         

         

         そんなことを親にも話していたのだろうか。母が「次のテストで順位上がったら、ビートルズのCD買ってあげるわ」と言った。おお!ラッキーと思い、僕は張り切って勉強した。もともと勉強は苦手ではなく、基本的に学校の試験なんて暗記レベルなので、覚えれば点がとれた。頭がいいこととテストで点がとれることは別だ。僕は決してガリ勉ではなかったが、要領がよかったので、まあまあ良い成績を残すことが出来た。そして無事に学年順位を上げて、僕はビートルズの7枚目のアルバム『Revolver』を手に入れたのだ。ずっと未発表デモ音源の「Tomorrow Never Knows」や「And Your Baird Can Sing」を聴いていた僕は、オリジナルを聴いてもデモの方がいいような気がしていた、というのが正直な感想だ。お気に入りは「Eleanor Rigby」、「Taxman」、「For No One」、「She Said She Said」だった。

         

         

         父も、自分よりビートルズに詳しくなっていく息子に感化されたのか、新品で『The Beatles』(ホワイトアルバム)の輸入盤を買ってきたりした。なんで解説がない輸入盤を、と心の中では思ったが、ありがたく聴かせていただいた。ホワイトアルバムは変なアルバムだったけど、そういう意味不明なところも含め「ナンカカッコイイ」と思い込んで、ひたすら聴いていた。学校が休みの晴れた日曜日に聴くとぴったりな感じがした。中学時代の終わりの頃には、ビートルズと言えば、ホワイトアルバムかアビー・ロードを連想するようになっていた。赤盤しか知らない僕ではなくなっていた。

         

         

         その後も僕は定期試験の度に、ご褒美を設定させてもらい、ビートルズだけではなく、オアシスのアルバムもゲットしまくることになる(ミスター黒崎の授業に来てたイギリス人のアシスタント・イングリッシュ・ティーチャー、エマが教えてくれた。ビートルズの「You’ve Got To Hide Your Love Away」のカバーをツタヤで見つけて借りたらハマったのだ)。UKロックが僕に勉強をさせて、UKロックのおかげで僕は進学校に合格することができた。サンキュー、ロックンロール。

         

         

        (「5. 作曲開始」に続く)

         

        ビートルズと私(間瀬聡)「3. 赤盤の日々」

        2016.10.11 Tuesday

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          3. 赤盤の日々

           

           

           それから僕は来る日も来る日も赤盤を聴きまくった。その頃はまだ、どれが誰の声なのかも、ベースとギターの違いさえもよく分かっていなかった。ただ、レトロでかっこいい曲だなあと思って、学校から帰ると毎日赤盤を再生した。日本語解説も貪り読んだ。赤盤の歌詞カードはアルファベットが全て大文字で印刷されているので読みにくかったが、CDに合わせて一緒に歌えるように練習した。しばらくは(ビートルズあるあるだが)、ジョンとポールの声の音量バランスが対等なので、ポールのハモりパートの方を主旋律だと思い込んでいた。どうしても高い音に耳がいってしまう。「I Want To Hold Your Hand」も「She Loves You」もジョンパートからポールパートに自然に移動して歌っていた。今でも癖で主旋律とハモりを混ぜこぜで歌ってしまう。

           

           

           いつでも聴けるようにカセットテープにダビングして、父の運転する車の中でも聴いていた。初めて犬をもらって飼った時(マルチーズと謎の雑種犬のミックスだった)、親戚の家からの帰路、車内で子犬とじゃれながら「Eight Days A Week」のポールパートを歌っているホームビデオが今も実家にある。ある曲を聴いて、特定の思い出が呼び起こされるのは、音楽のいいところの一つだ。

           

           

           僕は赤盤のディスク1が一番好きで、ディスク2はレトロ感があんまりなくて、まあまあ好きだなという程度だった。ミスタードーナッツで感じていた、あの郷愁感が少ないと思った。今になって考えると、確かにデビュー当時の楽曲はレトロだけど、1965年頃の楽曲になると、どこかしら普遍的なモダンさもあるように感じる。そしてそれは改めてビートルズの凄さ、斬新さを痛感させる。

           

           

           青盤は苦手だった。「Let It Be」は分かる。「Hey Jude」もいい曲だと思う。でも解説に書いてあるような「Strawberry Fields Forever」や「I Am The Walrus」の良さが全く理解できなかった。なんだかややこしくて、変な声の変な曲が多いなあと思った。青盤はちょっと聴いただけで、赤盤リピートの日々がしばらく続いた。

           

           

           しかし大好きだったディスク1も聴きすぎて次第に飽きてきた。そうするとディスク2の「We Can Work It Out」や「Drive My Car」などのポップでノリのいい曲にハマってきた。お洒落だなと思えてきた。それでも「Michelle」や「Girl」は少し暗くてあまり好きではなかった(「Yesterday」も相変わらずお気に入りではなかった)。

           

           

           その頃には、歌詞カードを見て歌うだけでなく、自分でもギターを弾きながら歌いたいと思うようになっていた。中学1年生の誕生日に、桜山の愛曲楽器で、祖母に韓国製のタカミネのアコースティックギターを買ってもらった。僕は、スピッツの草野マサムネさんが「チェリー」で弾いているようなナチュラルカラー(薄い木の色)のギターが欲しかったが、祖母と母がサンバーストカラー(濃い茶色で周りが黒のグラデーション)の方がかっこいいと言って、そっちを買うことになった。ジョン・レノンが弾いているギブソンのアコギのような色だ。ギターは独学で教本を見ながら適当に毎日弾いていた。手元を見ないでコードチェンジがスムーズに出来るまで、何回も練習した。少し弾けるようになると(本当に少しだ)、『ザ・ビートルズ80』という、コードが載っている楽譜を買ってきて、赤盤の曲をジャカジャカとストロークして弾き語りした。難しい押さえ方のコードがある曲は無視した。僕が未だにギターがあまり上手くないのはこういうところがあるからだ。それでもギターを始めたことで、ビートルズをより一層楽しめるようになってきた。

           

           

          (「4. TV編集版アンソロジー」に続く)

          ビートルズと私(間瀬聡)「2. イエスタデイを数えて」

          2016.10.04 Tuesday

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            2. イエスタデイを数えて

             

             小学校を卒業して、故郷名古屋に戻ってきた。父の実家を建て直した二世帯住宅に住んでいた。中学は家から歩いて3分の汐路中学校。汐路小学校と陽明小学校の生徒が通うことになる中学で、もちろん僕は友達ゼロからのスタートだった。岐阜弁と名古屋弁の微妙な差に気づきながら、調子をこきすぎず、クールすぎない適度な距離感でクラスメイトと接して、徐々に若者の名古屋弁を習得していった。

             

             

             中学で初めて学ぶ英語。ムカミ・カマウというケニア人が出てくる教科書で、なんか変だけど楽しそうだと思った。英語の先生はミスター黒崎だった。ミスター黒崎は山口県出身の新米教師だった。シャイで小生意気な新入生を相手に、未知の言語(言語とは思想だ)を教えていくのはなかなか難しいだろうなと思った。

             

             

             ミスター黒崎は、僕たちが英語に親しめるように、時々授業で洋楽を扱った。マイケル・ジャクソンの「Heal The World」やポール・マッカートニー&スティービー・ワンダーの「Ebony & Ivory」など。歌詞の聞き取りを目的に、簡単な穴埋め問題形式で、繰り返しリスニングした。ビートルズの「Yesterday」は多分、ミスター黒崎が最初に聴かせてくれた英語の曲だったと思う。歌詞を見ずに聴いて、曲中で何回「イエスタデイ」と言っているのか数えましょう、という課題。2回くらいみんなで真剣に聴いた。その時は、なんだか地味で暗い曲だなと思った。ジャミロクワイやスパイス・ガールズ、スキャットマン・ジョンなんかのヒット曲を聴いていた僕にはシンプルすぎて物足りなかった。その日の授業は「Yesterday」を聴いて終わり、次の授業でもう一回歌詞を見ながら聴いて、答え合わせをすることになった。

             

             

             家に帰ってから、僕はもう一回イエスタデイの数を確認したくなった。母に「うちにビートルズのイエスタデイ入っとるCDないの」と聞いたら、「お父さんの持っとるやつにあるんじゃない」と言われ、CDラックを探した。ビートルズのCDが何枚かあって、その中の2枚組の赤いやつにイエスタデイが入っていた。通称「赤盤」と呼ばれている、ビートルズ初期から中期にかけてのベストアルバムだ。ジャケットは子供みたいな髪型の怪しい外人が4人、階段に並んでニコニコ笑っていてダサいと思った。なお、その時ラックにあったのは、赤盤と青盤(後期のベストアルバム)、アンソロジーの13BBC のライヴ盤、『Abbey Road』くらいだったと思う。なんだ、父さんはミーハーなファンだなと後になって思ったものだ。

             

             

             さて、そのようにして家でもイエスタデイを数え、しかも歌詞カードをばっちり見ながら聴いたので、次の授業は余裕だと思った。イエスタデイはもう完璧なので、他の曲も聴いてみるかと、赤盤のディスク1を頭からかけた。ミスタードーナッツとの再会だった。あれ?これもミスタードーナッツ。あ、これもミスタードーナッツだ、と懐かしく、そしてどこか新鮮な気持ちで2分程度のポップソングを繰り返し聴き続けた。イエスタデイと全然違うなあ、こっちの方が断然いいなあと思った。このようにして僕はようやくビートルズと出会い直し、一気にビートルズにハマっていくのである(ちなみに課題の正解は「8回」)。 

             

             

            (次回「3. 赤盤の日々」に続く)

            ビートルズと私(間瀬聡)「1. 岐阜市役所前のミスタードーナッツ」

            2016.10.04 Tuesday

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              1. 岐阜市役所前のミスタードーナッツ

               

               

               7歳の夏に僕は岐阜市に引っ越した。長良川の花火大会の日だった。なぜ覚えているかというと、一人で花火を見に行こうとして迷子になったからだ。自分の家も分からず泣いていたら、警察署に連れて行かれ、迎えにきた母にひっぱたかれた。鮮明な思い出である。その後のワイルドな岐阜時代を通して僕は、奇麗な標準語を喋っていた泣き虫少年から、こってこての岐阜弁のお調子者に成長していった。

               

               

               僕が住んでいたのは小熊町にある十六銀行の社宅だ(おそらく今はもうない)。岐阜市役所まで歩いて5分ほどの距離で、市役所の横にはミスタードーナッツがあった(今ではauショップになっている)。母や妹、友達と一緒に行って、スクラッチカードで10点集めて、景品をもらうのが楽しみだった。そのミスタードーナッツでいつもかかっていたのが初期のビートルズソングだった。意味も何もわからない英語の曲だけど、何度も聞くうちに親しみが湧いた。ビートルズのことは知らないし、もちろんビートルズがイギリス人だということも知らない。だから当時の僕は、ドーナッツ=外国、外国=アメリカ、アメリカ=ビートルズ、という印象を抱いていた。そしてそれは外国に対する、ほのかな憧れの芽生えでもあったかもしれない(言い過ぎかもしれない)。

               

               

               今思えば、そこでは多分、ロリポップなどのオールディーズナンバーと並列で、「From Me To You」なんかが流れていたんだと思う。鮮明な記憶もあれば、曖昧な記憶もある。少年時代とはそういうものだ。でも、中学生になって初めてビートルズをビートルズと認識して「From Me To You」を聴いた時、「あ、これミスタードーナッツの曲やん」と思ったのは確かだ。個人的には、特にハーモニカの曲、「Love Me Do」や「Please Please Me」に、とってもミスタードーナッツを感じた。それくらい僕の頭にはビートルズ初期のポップソングが、ミスタードーナッツの甘い匂いと供に、外国風の素敵な思い出として染み込んでいたのだった。ここまでが僕のビートルズ体験のプロローグである。

               

               

              (次回「2.  イエスタデイを数えて」に続く)