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    ビートルズと私(間瀬聡)「11. カルマセーキ(2008~2009)」

    2016.12.16 Friday

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      11. カルマセーキ(2008~2009

       

       

       大学を卒業しても、レコーディングが少しだけ残っていたので、5月まで箕面に住んでいた。実紗が大学に来なくなったので、この頃からカルマセーキの練習は十三のLan Music Studioでするようになった。後にエニクスパルプンテ(現・ユナイテッドモンモンサン)と知り合い仲良くなったスタジオだ。

       

       

       そんなある日、いつものように北千里から阪急電車に乗ろうとすると、見知らぬ番号から電話がかかってきた。「ホットスタッフの○○と申しますが、カルマセーキの間瀬さんでしょうか」と。瞬間的にフジロックだと理解した。手が震えた。電話を切ってからすぐに、メンバーと谷尾さんに「フジロック出演決まりました」とメールした。阪急の車内で、十三に着くまでずっとニヤニヤしていたのを覚えている。興奮を隠しきれなかった。卒業してすぐにこんないいことが待っているとは思わなかった。その日のスタジオでは、仕事帰りの谷尾さんも駆けつけて、みんなでフジロック出演を祝った。幸せな夜だった。

       

       

       レコーディングが終わると箕面にいるメリットがなくなったので、大阪市内に引っ越した。ライヴハウスに行くのが大幅に楽になってよかった。平日は実紗が仕事なので、この頃は土日祝日にだけライヴをしていた。

       

       

       フジロックに出るのはもちろん、見に行くのも初めてのことだった。学生時代は毎年のようにサマソニには行っていたが、フジロックは大阪からは遠く、学生には少し高価でセレブパーティーのような印象を持っていた。憧れのフェスに行けることで、正直ピクニック気分は拭いされなかった。

       

       

       僕らはバンドメンバー4人と、スタッフに谷尾さん、そして芳充も連れて、楽器を持って特別夜行列車「星空トレイン」に乗って新潟苗場に向かった。のちに親しくなる、ぴあ関西のライター奥ボウイ昌史さんが、この時のことをよく覚えていてくれる。なにしろ、客に混じって夜行列車に乗って出演するバンドは僕らしかいなかったらしい。大体は車で来るのだそうだ。僕らはそれまで大阪と京都の、電車で日帰り出来るライヴハウスにしか出演したことがなかった。初の遠征ライヴがフジロックだったので、わからないことだらけだったのだ。

       

       

       星空トレインは楽器に席を占領されて、上手く眠れなかった。明け方、越後湯沢駅に着いてから、予約していたペンション、みつまたロッヂに行って、荷物を置いて一息ついた。夜はみんなで雑魚寝できるし、楽器も濡れないし、朝飯も付いているし、最高の宿だ。

       僕らの出番は2日目だったので1日目は多いに満喫した。ルーキーアゴゴーゴーのステージも確認して、明日の作戦を練った。そして、2日目は早めにロッヂに戻って、機材を持ってシャトルバスに乗って本番を迎えた。

       

       

       結果は、僕らの経験不足が如実に表れた。外大の夏祭りとはわけが違う。世界レベルのロックバンドが集う夏祭りなのだ。もちろん、その時は興奮して楽しかったが、フジロックでは何一つ残せなかったと思う。出るのが早すぎた。友達も苗場まで応援に来てくれて嬉しかったが、もっと頑張らないと、という気持ちで大阪に戻った。大量に持ってきた『カルマセーキの素敵』を郵便で送って。

       

       

       本当にきつかったのは、フジロックの後からだった。業界の関係者がライヴを見に来ることが増えたが、僕らのライヴのレベルは低いままだった。一つだけ声をかけてくれたレーベルがあったが、若かった僕らはその人の言っていることを理解できず、結局何も繋がらなかった。その年のFM802主催のミナミホイールに出演するも、この時ほど惨敗を味わったことはないかもしれない。僕らの前に出演していたDWニコルズは素晴らしかったが、僕らのライヴは惨めなまでに酷かった。いつまでも学生ノリが消えていなかったのかもしれない。痛々しくて、どうしたらいいのかわからなかった。唯一よかったことは、後に外大の先輩でもあると分かる、802DJの野村雅夫さんと知り合えたことだ。雅夫さんは面識もないのに、後輩だとも知らず、僕らの「短刀」を聴いて、オススメコメントを書いていてくれたのだ。雅夫さんにはそれ以降もライヴを見に来てもらったり、番組に呼んで頂いたり、とてもよくしてもらった。

       

       

       それまで人生で挫折を味わったことのなかった僕が、初めて迷走していた時期かもしれない。もう、キモさやエキセントリックなパフォーマンスで誤摩化すのはやめにしようと思った。ライヴでスーツを着るのもやめた。ギターもほとんどコードストロークしかしていないし、エフェクターも使わなくなってきたので、エレキギターからアコースティックギターに持ち替えた。

       

       

       しばらく試行錯誤を繰り返しながら、次第にフォークロック寄りのサウンドに固まっていった。メンバーのコーラスの比重も少しずつ増えていった。そうして、「Big River」や「デイドリーム」がライヴ定番曲になっていった。

       

       

       2009年にはまたオーディションライヴに参加するようになる。6月にはグリーンズ主催の「ぐっ」というイベントで優勝した。11月には関西最大級のコンテスト「イオ・ミュージック・トライ」で優勝。その間には3曲入りのシングル『Big River』をリリース。ようやく、フジロックからの巻き返しが出来てきたなという時期だった。

       

       

       この年は盟友(あえてそう呼ばせてもらう)モーモールルギャバンと共演する機会が多かった。ホームグラウンドでもあるpara-diceのこけら落としライヴから始まって、レコ発イベントにも出演してもらい、イオでも、共に投票枠から決勝に勝ち上がって戦った。同じ小さいライヴハウスでやってきた仲間が、ずっとかっこいいバンドでいてくれて、そんなバンドに、カルマセーキが優勝なら認める、おめでとう、と言われて本当に嬉しかった。『Big River』の流通をきっかけに、野木健次さんと出会ったのもこの時期で、それからずっとスタッフとして一緒に活動していくことになる(メンバーの家族にもなる)。僕らがイオで優勝した時、野木さんも、グリーンズのカルマセーキ担当だった荒井さんも、友達も家族も関係者もみんな、自分のことのように喜んでくれた。母を含め、泣いている人たちまでいた。いつの間にか、応援してくれる仲間が激増していた。

       

       

       『Big River』からイオまでの時期で明らかに変わったことがある。僕らはどちらかというと斜に構えた音楽性だったが、自信を持って「応援してください」「どうか聴いてください」と言えるようになった。コンテストでウェブ投票してもらうために、しつこいくらい宣伝したし、それは投票枠1位という結果になってちゃんとあらわれた。カルマセーキがこんなにガツガツ宣伝するバンドだとは思わなかったと言われたが、元々夏祭りに出る頃はガツガツしていたのだ。初心忘れるべからず。この頃から、家族も親戚を巻き込んで応援をしてくれるようになった。実家に帰ると、車で自分のCDがかかったりして、妙な気持ちになったが、真剣に音楽をやっていることが伝わってよかった。胸を張って自分の音楽を聴いてもらえるようになった。好きなことこそ、神経をすり減らしてまで追求する価値のあることだ。そして、それはこの後のアルバム制作で痛いほど身に染みることになる。

       

       

      「12. カルマセーキ(2010~2012)」に続く

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