スポンサーサイト

2016.12.29 Thursday

0

    一定期間更新がないため広告を表示しています

    ビートルズと私(間瀬聡)「10. カルマセーキ(大学時代後期)」

    2016.12.15 Thursday

    0

      10. カルマセーキ(大学時代後期)

       

       僕が大学2年の時に、長髪のビジュアル系のようなルックスのガリガリの男が軽音に入部してきた。大塚洸平だ。あまり音楽性は合わなそうだなと思っていたが、僕が一人、部室で新曲のデモを録音しているのを見て、興奮して音源を欲しがった。そんなに好きならと、梅雨時ライヴではコーラス参加させた。間谷祭ではギターを弾くかと誘ったが、無理だと断られた。仕方ないので、その時は照明をやらせた。そして、僕が3年で軽音部の部長になった頃、もう一度カルマセーキに誘ってみた。この時はどういう訳か受け入れられた。本人は何かしらの覚悟があったのかもしれない。ともかく、これでギターが決まった。

       

       

       外大というのは非常に女性の割合の多い大学で、軽音部も半分以上は女だった。僕は男だけでバンドを組みたいと思っていたけど、結局、色々なコピーバンドに誘われていて、器用そうなドラマーの山口実紗に声をかけてみた。実紗はジャズ研究会にも所属して練習していたので、鈴木君より上手そうだったからだ。同じ学年だったが、あまり長く話したこともなく、むしろ嫌われているのではと思っていた。それでも、オリジナルはやったことないから面白そう、という理由で参加してくれることになった。

       

       

       ベースは1学年下にフェミニンな変わった奴がいて、とっつきにくかったが、上手だったので小向井力を誘った。通称コムだ。コムもジャズ研を兼部していて、ピアノも弾けた。身長も高かったので、ステージ映えもするかなと思った。コムもなんら迷うことなく、サークル内の一つのバンドをやる感じで快く参加してくれた。これが新生カルマセーキで、ふわっと始まってから、2010年まで続くことになるメンバーだ。

       

       

       当時僕は、自分では夏祭り三部作と呼んでいる、手応えのある新曲を3曲書いていた。「バタフライ」「アンカー」「ふりふり」だ。この3曲を新メンバーに必死に教えて、授業の合間や夜にサークル棟が閉まるまで練習した。3人は演奏で手一杯だったので、コーラスは別に2人のサポートメンバーを入れた。同学年の石村睦子さんと野間馨介君だ。野間君は前の間谷祭でもボンゴを叩いてくれていた。

       

       

       そして夏祭り当日、悪天候で野外ステージは大講義室に変更になった。実はこれも馬田さんの時と一緒だったので、悪い気はしなかった。僕らは大学内に手作りのポスターを貼りまくって宣伝していた。誰も知らないのに先にセットリストまで書いて。夏祭り実行委員会でもカルマセーキはちょっと話題になっていたらしい。圧が強すぎたのかもしれない。とにかく、僕らのデビュー戦は持ち時間アウトで、実行委員に強制終了させられて、最高潮に達して終わった。ビートルズのルーフトップセッション(最後に警察に止められる)みたいでいいじゃないか。迷惑な奴らだけど、最高にロックな気分を味わえた。メンバーも手応えを感じてくれていた。洸平は後に、この時のライヴを越える達成感は、最後のワンマンライヴまで得られなかった、と言っていた。

       

       

       この感じを一時的なもので終わらせるのはもったいないと思った。洸平とは普段からよく遊んでいたので安心していたが、あまり仲良くない実紗とコムをどうにかつなぎ止めるには、新曲を作りまくって、練習の予定を組みまくるしかないと思った。辞める暇を与えない作戦だ。「触れる世界」という曲が出来て、最高傑作が出来た、とみんなで興奮した。そんな頃、箕面メイプルホールでバンドコンテストがあると聞いた。優勝したら音楽ギフト券がもらえるらしい。僕はギフト券でメンバーをつって、エントリーしてみた。もの凄く低レベルな争いの中、無事に優勝してギフト券を山分けした(2000円くらいずつ)。これが初めて学外でライヴした経験である。勢いを止めては行けない。休んだら終わりだ。

       

       

       その年の間谷祭では、1時間にわたるセットを組んで、もはや部員にも引かれ始めていたと思う。そろそろライヴハウスにも出てみようということになり、12月に関大前のTHホールに出演してみた。共演者が変な人ばかりだなと思った。洸平が難波ロケッツに出たい、と言うので練習を録音したテープを持ってブッキングを依頼した。当時、もの凄く高いチケットノルマがあったが、僕らは友達に売りまくって、いつも大体黒字だったと思う。ライヴの日は、授業を休んで、部室で練習して、大学前からバスに乗って千里中央まで行き、そこから御堂筋線に乗り換えて難波まで行く。帰りも終バスが早いので、機材を持って走る。こんな繰り返しで大変だったが楽しかった。ライヴハウスは他にも京都の磔磔や、中津のVi-codeに出演した。共演はいつも、あまり好きではないタイプの音楽をやっている人達が多かったが、学外で活動し始めて、自分たちが井の中の蛙だったこともわかってよかった。それでもやはり、カルマセーキが一番かっこいいと思い込んではいた。

       

       

       ライヴハウスに出るようになると、物販というものがあることに気づいた。みんな手作りのCDやらグッズを販売している。僕らも何か売りたいと思い、それまでに出来た曲を部室で録音して、13曲入りのアルバムを作った。ファーストアルバム『触れる世界』だ。アルバムと呼ぶにはクオリティが低く、CDRに焼いて、ダイソーで買い込んだクリアケースに入れる。軽音の合宿で撮った写真をシルエットにして、ジャケットにした。ミックスやマスタリングという知識もない僕が録音したので、ほとんどデモ音源だが、今まで聴いてくれた人達に家でも楽しんでもらえたらという気持ちで、500円で販売した。リリース日はビートルズの「When I’m Sixty Four」にちなんで、ポール・マッカートニーの64歳の誕生日、2006618日にした。中のブックレットにもポールに捧げると書いてある。

       

       

       2006年、僕は1年間の休学中だった。近所のイタリアン、MUSHROOMでバイトしながら、音楽を作っていた。谷尾さんは既に卒業して、なぜか梅田のビジュアル系のライヴハウス、HOLIDAYで店長をしていた。そんな谷尾さんが、「うちでイベントせえへん」と言って、729日にカルマセーキ初の自主企画「FURI ROCK FESTIVAL ‘06」を開催することになった。当時の代表曲「ふりふり」と憧れのフジロックをかけている。共演者は芳充が近大の軽音でやっているバンドや、ライヴハウスで知り合った面白いバンド、軽音後輩のナードマグネットなどだった。内容は、あまり覚えていないが、多いに楽しんだと思う。夏祭りに出たかっただけのバンドが、一年でここまでやれたのは、友達がたくさん見に来てくれて、凄いね、と煽ててくれたこと、メンバーに辞める暇を与えさせずに走り続けたことのおかげだ。しかし、この1ヶ月後に僕はカナダに、実紗はハンガリーに留学して、カルマセーキはまた半年間の活動休止になる。

       

       

       カナダ・トロントに行く前に「バケツの花」「やっほい」「エスタシオン」「斜塔」「イノセント」などが既に出来ていたが、トロントでは日本語を使うまいとして、歌詞を書き上げるのは帰国後にとっておいた。留学中は、ケンジントン・マーケットのレコード屋、Paradise Boundに入り浸った。そこの店主と仲良くなり、アンダーグラウンドなライヴ現場に色々連れて行ってもらった。Cameron Houseというパブが気に入って、そこのハコバンド、Run With The Kittensと、Kevin Queinに影響を受けた。アコースティックギターでロックしたいなと思ったのはこの頃である。楽器屋でアコギをレンタルして、「ローレンス」「短刀」「架空の動物」を作った(これも歌詞は帰国後に書いた)。「短刀」が出来た時、帰国したら凄いことになる、カルマセーキ第2章が始まると興奮した。トロントでよく聴いたのはYusef Lateef The KinksRufus Wainwrightだ。今でも彼らの曲を聴くとトロントを思い出す。

       

       

       トロント滞在中にはニューヨークの親戚のうちにも遊びにいき、ジョン・レノンが殺されたダコタハウスや、セントラルパークのイマジンの碑を見に行った。ここでジョンが死んだのに、実際に来てみるとあまり感慨深くはなかった。なぜだろう。関係ないが、僕は半年間髪を切らなかったので、ちょうど長髪時代のジョンのようになっていた。

       

       

       帰国するとキンクスの影響で、モッズスーツを仕立てた。今はなき、アメ村のD-noticeというオーダースーツのお店に、コムと洸平と一緒に行った。新曲が沢山溜まってきたので、また部室でガンガン練習した。ライヴハウスは新規開拓して、馬田さんに教えてもらった扇町のDICEの常連になった。ダイスのマンスリーのチラシのオススメライヴに選ばれることが目標で、載ったときには嬉しかったのを覚えている。スーツを着たカルマセーキの音楽は、全くスーツと合っていなかったけど、楽屋で着替えるたびにビートルズのような気分になって、引き締まって良かった。

       

       

       セカンドアルバムを作りたいと思っていた頃、谷尾さんが今度は俺に録らせてくれと言ってきた。音楽制作ソフト、ロジックを購入したのと、『触れる世界』の音の悪さにうんざりしたことなどが理由らしい。僕の大学5年目は、残りの授業とレコーディングとライヴしかしていなかったと思う。

       

       

       レコーディングは主に部室と、箕面市東図書館の音楽室、谷尾さんが住み続けていた外大の学生寮、兵庫ハイツで行った。ほとんどお金がかかっていない。谷尾さんは転職活動中で時間がたっぷりあったので、平日の昼間から僕と2人でひたすら音楽を作っていた。休憩中は2人でペペロンチーノを作って食いまくっていた記憶がある。2007年の夏頃から始まったレコーディングは卒業式を過ぎても少し続いた。谷尾さんが、凄いアルバムが出来るし、フジロックに応募しようと言い、僕らは締め切りギリギリで仮ミックスしたばかりの「バケツの花」「短刀」「ローレンス」を送った。

       

       

       アルバムのタイトルは『カルマセーキの素敵』に決まり、ジャケットの写真は外大の生協、裏ジャケットはサークル棟の屋上、中写真は僕のバイト先のカウンターで撮影した。僕がエピフォンのリビエラ、洸平がビンテージのリッケンバッカーを持っていて、ドラムには実紗が自分でつくったカルマセーキの文字。ビートルズみたいで嬉しかった。全13曲入り、カルマセーキ大学時代の集大成的なアルバムが完成し、リリースはポールの66歳の誕生日、2008618日にした。

       

       

       なお、僕は就職活動を一切せず、フリーターになり音楽を続けると決めていた。大学に行かせてくれた親に言うときは申し訳なかったが、母が「そう言うと思っとったし、やりたいようにやったらいい」と言ったので安心した。親は何でもお見通しだし、懐の大きさが違う(この時の気持ちは後に「計画」で歌った)。

       

       

       メンバーにはどうやって本気を伝えたのか覚えていない。コムは退学して、実紗は会社に就職した。洸平はずっと学生を続けていたので安心していたが、どうやら大学を卒業してもロックバンドを続けられる僕は幸運だった。自信作『カルマセーキの素敵』だけを頼りに、僕はバンドマンになった。

       

       

      「11. カルマセーキ(2008~2009)」に続く

      スポンサーサイト

      2016.12.29 Thursday

      0
        コメント
        コメントする