スポンサーサイト

2016.12.29 Thursday

0

    一定期間更新がないため広告を表示しています

    ビートルズと私(間瀬聡)「8. 高校時代」

    2016.12.01 Thursday

    0

      8. 高校時代

       

       

       ロックンロールのおかげもあって、僕は20004月に愛知県立明和高等学校に入学した。入学する前の春休みに、桜山の眼鏡の愛眼で、ジョン・レノンモデルの丸眼鏡を新調して気合いを入れた。鼻当てのない、ビートルズ後期の頃のモデルだ。ビートルズがライヴ活動を中止して、皆そろって髭を生やし出した時期は、鼻当てがあるタイプをかけている。初期は公では眼鏡姿を披露しなかったが、スタジオでは分厚いレンズの黒ぶち眼鏡をかけている写真をよく見る。ちなみにジョンは沢山の丸眼鏡を持っているが(お気に入りのブランドはサヴィル・ロウ)、元々は映画『How I Won The War(ジョン・レノンの僕の戦争)』の中で、イギリスのNHS(国民保健サービス)に支給された丸眼鏡をかけたのがきっかけだそうだ。彼の丸眼鏡コレクションの一部はソロの『Walls & Bridges』のジャケットでも披露されている。なお、僕はその丸眼鏡を高校3年の秋までかけた。学校では誰ともかぶっていなかったし、気に入っていたのでかけ続けてもよかったのだが、ちょうどハリー・ポッターが流行りだして、僕が魔法使いの真似をしていると思われたら嫌なので変えた。ハリーも同じような鼻当てのないタイプの眼鏡をかけていたので、なおさら都合が悪い。とんだブリティッシュ・インベージョンだった。

       

       

       さて、そのようにジョン・レノン気分で登校したクラスは当たりだった。担任の兵藤先生という、飄々とした雰囲気の数学教師も素敵だったし(彼は僕が3年の頃に「これからは百姓になります」と言って、お寺の横の畑を買って退職していった)、何より、好きな音楽を存分に語り合える友達が出来た。1年の時の音楽仲間が伊藤友一、一柳芳充、鈴木雄登だ。みんな洋楽が好きで、この頃昼休みには教室のスピーカーのボリュームをオフにし、レッド・ホット・チリ・ペッパーズやオアシス、レイジ・アゲンスト・ザ・マシーンやクーラ・シェイカーをCDコンポで(割と大きな音で)流していた。今思えば、相当に迷惑な奴らだ。下校時には週に何回かは栄のバナナレコードや上前津のサウンドベイ(当時はサウンドベイ・リパブリック)に行って、安い中古CDを買い漁った。教室にはもちろん、ギターを持ってきた。友一と芳充は二人とも20万円くらいのギブソンのエレキギターを持っていた。雄登はピアノが上手で、クラスの合唱でも伴奏を(嫌々)担当した。この雄登がのちに結成するサルバ通りのユート鈴木である。彼ら3人はPM同好会という、軽音サークルのようなものに入った。僕はなぜだったか忘れたが、PM同好会には入らず、陸上部に入った。単純に足が速くなりたかったからだろう。しかし大会には元々興味がなく、大会で土日がつぶれるのが嫌になったし、一応足も速くなったし(大会記録で100メートル11.8秒だった)、いいタイミングで左太腿の裏が肉離れしたので、2年の時に辞めてPM同好会に加入した。

       

       

       2年のクラスも、偶然というか奇跡的に芳充と雄登が一緒だった。テンションが上がったまま、僕らのロックンロール・ハイスクールライフは続いた。2年では小玉雅彦、通称ダマーという、これまでに出会った誰よりも音楽馬鹿の友達に出会った。ダマーはラグビー部を辞めたばかりで、スキンヘッドでマッチョボディのレディオヘッド好きのいかつい奴だったが、楽器は何も出来なかった。が、僕らと話しているうちに、自然とPM同好会に入ってドラムを叩くようになった。僕の音楽教養の基礎は芳充とダマーの二人にCDを借りまくったことで完成した。二人にはとても感謝している。

       

       

       PM同好会は、ちゃんとした練習部屋を与えられていなかった。男子バレーボール部の更衣室と、トレッキング部の部室に挟まれた四畳半もないスペースに、アンプとスピーカーとドラムが詰め込まれた、なんとも粗悪な環境だった。しかも、機材の使い方や、楽器の弾き方を教えてくれる先輩もおらず、僕らは完全に自己流で、完全に間違ったやり方で、完全に自由に遊んでいた。レパートリーも無茶苦茶だった。やりたい曲を片端からやるだけだ。文化祭では芳充ボーカルのバンドはレイジ・アゲンスト・ザ・マシーンをやった(僕以外のいつものメンバーと、違うクラスの山口智三、通称ともぞうがベースで参加していた)。僕はまだ入りたてだったので、前座で雄登とオアシスの「Cast No Shadow」と「Champagne Supernova」、ステレオフォニックスの「Pick A Part That’s New」をアコギとエレピで演奏した。この頃は大須のコメ兵で買った中古オベーションのエレアコを使っていた。

       

       

       2年の3学期には初めてライヴハウスに出演した。大須のoysというハコだった。PM同好会の別のバンドに誘われて参加した合同イベントだったが、それは酷いライヴだった。見に来てくれた友達は騒いで楽しんでくれているようだったが、なにせ僕らは機材のまともな使い方も、楽器の適切なボリュームもわかっていない。ライヴハウスの人達はきっと腹が立っていたはずだ。僕らとしては、昼に矢場とんを食って景気付けし(いつも吉野家とマクドナルドだった僕らからしたら贅沢だ)、それぞれがやりたい曲を持ち寄った無茶苦茶なセットリストを、それはそれは下手糞に演奏して終わっただけだ。ビートルズはやらなかったと思う。しかし、酒も飲まずにあんなにハイになれるなんて、高校生は凄い。そこだけはもう思い出せない感覚領域だ。

       

       

       ここまで書いたように、高校時代は音楽的に充実していた。友達に未知の音楽を沢山教えてもらったので、ビートルズの研究はおろそかになっていた。もちろん、2000年(高校1年)には本の『ビートルズ・アンソロジー』の初回版を栄のHMVで予約して買ったし、赤盤青盤以来のベスト『1』も聴いた。「リマスターの音質はいいけど、やっぱり『1』じゃ、ビートルズは網羅できないよな」とかなんとか言いながら。ビートルズばかり聴いていた訳ではなく、そこから派生して、音楽を数珠つなぎ的に聴けるようになって、幅が広がったことが高校時代の僕をより豊かにしてくれたと思う。そのおかげもあってか、中学の頃よりマシな曲が書けるようになった。後にカルマセーキでも演奏した「徒然草」(雄登と演奏したテイクがどこかのカセットに残っているかもしれない)や「夕暮れに咲く」、「センス」「無花果」「兎」など、披露しなかったけれど、コツコツ自作曲は作りためて、MDに弾き語りで録音していた。そう、高校時代の唯一の音楽的なフラストレーションは、オリジナル曲をバンドで披露できなかったことだ(文化祭で「ファインビュー」というテーマソングを雄登と共作して、全校生徒の前で披露したくらい)。浮いた話もなく、音楽に明け暮れた僕らの青春は最高だったが、より最高な青春が大学で、そして大学を卒業してからも待っていることは、この時はまだ知る由もないのである。

       

       

      (次回「9. カルマセーキ(大学時代)」に続く)

      スポンサーサイト

      2016.12.29 Thursday

      0
        コメント
        コメントする