スポンサーサイト

2016.12.29 Thursday

0

    一定期間更新がないため広告を表示しています

    ビートルズと私(間瀬聡)「5. 作曲開始」

    2016.10.27 Thursday

    0

      5. 作曲開始

       

       

       中学時代はビートルズの話が出来る友達はいなかった。周りでもギターを始める奴がちらほらいたが、大体はGLAYのコピーや、当時流行り始めた、ゆずの曲を弾き語りでハモったりしていた。その時期は、MISIAや椎名林檎、宇多田ヒカルなど新時代の歌姫がデビューし、男子はDragon Ashの影響でラップを歌ったりしていたと思う。僕はビートルズの研究を続けていた。親戚の叔父さんが、毎年ビートルズカレンダーを買ってくれたので、終わった月の写真は切り取ってポスターにして部屋に飾った。興味がないと分かっていても、仲のいい友達にビートルズを啓蒙したり、2年の時の担任の松本先生に話したりした。

       

       

       松本先生は僕が中学時代一番好きだった先生で、若い頃にタムタムというバンドをやっていたそうだ。僕が音楽に興味を持っていて、ギターを弾いていることを知ると、先生もまたやる気がみなぎってきたらしく、新しいエレアコを買って教室に持ってきた。松本先生は美術教師で、サングラスをかけて速そうな車に乗って通勤し、髭をもじゃもじゃに生やすと後期のビートルズみたいでかっこ良かった(だいぶ肥えていてニックネームはトトロだったが)。中学の頃の僕は髭なんて一本も生えず、先生のビートルズみたいな髭が羨ましく、母の眉毛用鉛筆で髭を書いてみたりして我慢した。自由選択の授業でも僕は美術をとり、ジョン・レノンのナンセンス本『In His Own Write』に大いに影響された絵を描いたり(先生は「シュールだなあ」と笑っていた)、ビートルズのライヴシーン(「Revolution」のスタジオ演奏)の絵を描いてパズルにしたりして楽しんだ。なお、松本先生とは僕が28歳の時、名古屋新栄でライヴした時に13年ぶりに再会した。ライヴを見てもらえたのはもちろん、先生が相変わらずかっこ良かったのがとても嬉しかった。

       

       

       学校での僕のビートルズ啓蒙活動(レクリエーションタイムのBGMで「Everybody’s Got Something To Hide Except Me And My Monkey」や「I’ve Got A Feeling」を流したりした)は大して効果を上げず、結局一人で音楽を追求することになった。ギターはスピッツやビートルズ、オアシスの曲をジャカジャカ弾き語りして楽しめるくらいにはなってきた。今のように、インターネットにコード進行が出回っていなかったので(そもそも僕はパソコンを使えなかった)、コードはいつも本屋の立ち読みで覚えた。自転車に乗って、御器所の元禄屋書店か五常に行き、弾きたい曲のページを立ち読みしてコードを覚え、忘れる前に急いで家に帰ってギターで弾いた。昔の中学生は苦労していたのだ。

       

       

       中学2年になる前の春休みのことだった。岐阜の小学校の時の親友が家に遊びに来た。1年ぶりの再会だったが、中学校が違うだけで、ずいぶんと感じが変わるなあと思った。僕らは当時13歳。奇妙なスピードでいびつに成長していた。

       

       

       彼、山田純平君は僕の部屋にギターを見つけると、「俺、最近曲作っとるんやて」と言って、自作の曲を披露した。その時僕はこう思った。「この曲、しょぼい!」と。ギターも歌も下手だったが、自信満々に歌う彼を見て、何かいいなあとも思った。そして、これなら俺の方が数倍いい曲が書ける、と確信して、彼が帰った次の日から、ノートに歌詞を書いて自分でも曲を作るようになった。

       

       

       最初に書いた曲を覚えている。「蝶々」というタイトルで、コードが4つくらいの、Aメロ、Bメロのみのシンプルな曲だ。当時から僕の曲はAB構成が多かった。ビートルズの影響だろう。J-POPで主流のAメロ、Bメロ、サビというのが、身体に染み込む前だった。我ながら、いいメロディにうっとりした。サビの後にはしっかり「ナナナナナー」というビートリーな部分があった。歌詞は確か「懐かしい雲の形 懐かしい草の匂い 空の気持ちになれる俺は 涙が溢れるよ」とかいうしょぼい感じで始まって、「何億もの気持ちが言葉となって〜」みたいなちょっと文学的なことを言う鼻につく感じだったと思う。誰もが通過する恥ずかしいデビュー作だ。

       

       

       それからは、コピーより自分で曲を作る方が面白くなってしまった。曲が出来るたびに、カセットに吹き込んでは自分で聴いて楽しんだ。簡単なコードだけで、自分の好きなようにやればいいので、全然ギターが上達しなくなった。適当な押さえ方で、かっこよく響く謎のコードを見つけては、俺って天才かもしれん、と喜んで自信をつけた。歌詞に関しては日本語で書いていたので、スピッツの草野さんの意味深な部分だけを安易に拝借したつもりでいい気になっていた。まったくの自己満足である。でも、その頃は自分が満足するだけで十分だった。誰に聴かれなくても、俺は曲を作ることが出来る、とわかって嬉しかった。クラスの男子が教室でグレイ的な自作曲を披露した時、「間瀬君も作曲してるらしいよ」となって、冷や汗をかきながらちょっと聴かせたことがある。「洋楽を聴いてるし、やっぱり間瀬君は凄い」と言われて少し得意な気分だった。ちなみにその時の歌は「一人で食べるピーナッツもいいな 変に欲張らなくてもいいもんね」という謎のサビだった。多分、当時の自信作だったのだろう。

       

       

       中学時代に書いた曲で他に思い出せるのは「無料のスマイル」というサイケデリックな曲だ(後にカルマセーキのライヴでも2回ほど演奏したことがある)。ナンセンスでニヒルな歌詞(「雨に打たれた運動場 何か不思議な模様 君に見せたい 理想の盛り合わせの動物のショー 意味が少ない」というサビ。サビ?)と、途中で激しい三拍子に変わるという、ビートルズ(特に中期のジョン・レノン)の影響をもろに受けた曲だった。この曲を作った時に、初めてドラムやエレキギターと一緒にやりたいなあと思った。選択授業で音楽をとった時、課題がオリジナル曲の発表だったので、友達3人で「無料のスマイル」を披露した。僕がタンバリンと歌で、伊藤君がアコギ、小栗君がエレキだ。二人とも僕に言われるがまま、下手なギターを、分けも分からず弾いた。聴いていた生徒もぽかーんとしていたし、担当の先生は「変わった曲だね」と言い、誰にも理解はされていないようだった。が、僕は僕で実験的なビートルズが理解されなかった時代と重ね合わせて、自己満足に酔った。これが、僕が初めて自分の曲をバンドという形態で人に聴かせた、ライヴ初体験である。

       

       

       この章で言いたかったのは、僕が音楽を作るきっかけは山田純平君のしょぼい曲のおかげだったということ。純平君、どうもありがとう(ちなみに彼は、2011年に娘と息子を連れて、カルマセーキのタワーレコード名古屋近鉄パッセ店インストアライヴに来てくれた。息子は幼稚園で「もぬけの殻」を歌っていたらしい)。

       

       

      (「6. ロックバンドへの憧れ」に続く)

      スポンサーサイト

      2016.12.29 Thursday

      0
        コメント
        コメントする