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2016.12.29 Thursday

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    ビートルズと私(間瀬聡)「15. あとがき(「ビートルズと私」としての帳尻合わせ)」

    2016.12.18 Sunday

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      15. あとがき(「ビートルズと私」としての帳尻合わせ)

       

       

       久しぶりに長い文章を書いて疲れた。映画館でビートルズのドキュメンタリー映画を見て泣いて、自分の音楽人生(半生であることを願う、まだ生きたい)を振り返って、バンドマンを辞めることを報告しようと思ってこの文章を書き始めた。もうすぐ予約していたブルーレイ(もちろんTシャツ付きのコレクターズ・エディションだ)が届く時期だ。この映画は本当に最高。ビートルズのライヴ活動期をピックアップしたドキュメンタリーなのだが、バンドとは何か、その答えが全て詰まっている(もちろん、『ビートルズ・アンソロジー』にも詰まっている)。過酷なツアーを終えた後、兄弟以上の関係だったバンドが、休暇をとったり、家族ができたりすると、バンドへの熱量も変化していく。音楽的に進化するバンドについていけない世間。ジョージはそれを一言で片付ける。僕たちは年を重ね大人になっただけだ、と。

       

       

       『ビートルズと私』というタイトルなのに、半分は「私」だけのことになった(ちなみに『ビートルズと私』という、色んな人がビートルズの思い出を語るドキュメンタリー映画があって、そこから拝借している)だから、せめてこの「あとがき」でもう少しだけ、ビートルズに触れて、帳尻合わせをしようと思う。言いたいことは14章までで全て言った。ここからはおまけだ。

       

       

       ビートルズとカルマセーキの違いはたくさんあるけど、一番大きな違いは、「売れたか売れなかったか」という点だと思う。カルマセーキが売れなかった理由は、僕の努力が足りなかったから、それだけだ。運ではない。才能なんて努力でどうにでもなる。自分では結構頑張ったつもりだったけど、振り返るともっと頑張れたのではないかという点がたくさんある。もう少し売れていれば、活動休止することも、解散することもなかったかもしれない。でも全ては過ぎ去ったことだ。オールシングスマストパスだ(最終章は無理矢理ビートルズネタを増やす)。だけど、もっと売れたかったなあ。『秘密計画』も『鍵は開けてある』も1000枚プレスしたのに、まだ少しだけ残っている。『浮き浮き/ どうかセンセーション』に至っては、売る機会がなかったので、呆れるくらい残っている。大赤字だ。

       

       

       カルマセーキが初めてホームページを作ったときのことを覚えている。僕は語るのが好きなので、そこでもビートルズについて語っていた。ポール再来日のトークイベントでも話したことだが、まず、僕がビートルズに憧れるのは、集合体としてのバンドの美しさ、それに尽きる。それから、ビートルズに影響を受けたバンドは数えきれないが(因数分解してビートルズが出てこないバンドがいたら教えて欲しいくらいだが)、影響のアウトプットの仕方はたくさんあると思う。コピーバンドもいれば、音作りを真似するバンドもいる(これらは楽器のチョイスも重要)。曲構成や歌詞、フレージングを含めたアレンジを真似するバンドもいる。カルマセーキは楽器こそ似ていたが、あからさまなビートルズ感はコーラスくらいなのではないだろうか?僕は自分の曲で一番ビートリーだと思う曲は「Vicious Boy」だ。いわゆる、ライヴ活動を止めた後の、中期のビートルズの感じだ。それよりも僕の中の最大のビートルズエッセンスは、シリアスとユーモラスのバランス感覚だったりする。先に触れたポールの楽曲の振れ幅にも通じるところで、ビートルズの何でもありなところに一番影響を受けた。そして、真面目サイドも悪ふざけサイドも、どちらも魅力的なところがツボだった。ビートルズが真面目ばかりでも、悪ふざけばかりでも、飽きていたと思う。甘さとしょっぱさを交互に繰り返して楽しめるような感じがビートルズにはあった。そこはカルマセーキでも常に意識していた、というよりも、自分が飽き性なので、自分でも聴き飽きない音楽を作ろうとしていたら自然にそうなった。『鍵は開けてある』は今でも飽きずに聴けるので、名盤なのではないかと自分でも思う。

       

       

       僕は中学でギターを始めてから、コピーをするのが苦手だった。練習が嫌いだったからだ。だから、自分でも弾けるオリジナル曲を作って満足していた。ビートルズでも完コピできる曲はないと思う(僕が完コピできるのはオアシスのリアムの物まねだけだ)。それでも人生で何回はかビートルズのカバーはしてきた。カルマセーキでも何度かライヴで披露した。覚えているのは、「Norwegian Wood」「I Feel Fine」「Nowhere Man」「A Hard Day’s Night」「Twist & Shout」、ジョージのソロ曲で「My Sweet Lord」など。大学時代にはビートルズ好きの後輩とビートルズ同好会というバンドを組んで、「Happiness Is A Warm Gun」「Ticket To Ride」「Honey Don’t」、その他のユニットでも「Tomorrow Never Knows」「Day Tripper」などもやった。いつかちゃんとギターも練習して、アルフィーの坂崎さんみたいに何でもできるくらい完コピしてみたいと思う。

       

       

       それから最後に、初めてイギリスに行った時のことを書く。中学からずっとイギリスの音楽やファッションに魅せられてきたのに、今年、2016年まで一度も行ったことがなかった。大学時代の留学も、お金や発音の面などを考慮してカナダにした(それはそれで正解だったのだが。いつかまたトロントに行きたい)。いつか必ず行きたいと思っていたイギリスに、31歳になって、ようやく行けた。ロンドンにAirbnbの宿をとって、ビートルズの故郷リヴァプールと、オアシスの故郷マンチェスターにも立ち寄った。念願のアビー・ロードの横断歩道も渡ったし、スタジオも見たし、リヴァプールではマジカルミステリーツアーのバスにも乗って、ビートルズゆかりの聖地を巡礼した。夜にはキャバーンクラブでこぼしまくるほどビールをおかわりして、見知らぬおばさんや、スペインからの観光客と歌って踊りまくった(ステージの人に、なにか突っ込まれたが、訛っていてよく分からなかった)。この時は、ニューヨークの時と違って、さすがに興奮した。バスツアーに参加して分かったのは、ビートルズのメンバーが本当に近所に住んでいたことである。こんな絵に描いたようなロマンがあるだろうか。世界の片隅の港町のほんの一角に、あれだけの天才が4人も住んでいて、偶然出会うなんていうことがあるだろうか。そのことを想像しただけで涙が出てくる。ビートルズの最大の才能は、メンバー含め、マネージャーのブライアン・エプスタインや、プロデューサーのジョージ・マーティンなど、出会うべき人に、出会うべきタイミングで出会えたという才能だと思う。人は人に影響を受ける。一人では才能を発揮できない。出会いこそ才能を開花させる秘訣だと思う。

       

       

       そういう意味では、僕も出会うべき人に出会う才能はあったのかもしれない(繰り返し言うが、売れなかっただけだ)。これからの人生でも大切にしたいと思える人にたくさん出会えた。もちろん、これから初めて出会う人にも大いに影響されて、それは僕の人生をもっと複雑で面白いものにしてくれるだろう。出会ってくれた全ての人に感謝して、僕もお返しに何か影響を与えられたらいいなと思う。これからもワイルドに生きよう。鳥のように自由に(これもビートルズ)。     

       

      (終わり)

      2016.12.18

       

      ビートルズと私(間瀬聡)「14. サルバ通り」

      2016.12.17 Saturday

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        14. サルバ通り

         

         

         サルバ通りのメンバーで、最初に誘ったのは高校時代の音楽仲間、雄登だった。東京で会社員をしているので、色々無理があることは初めからわかっていた。それでも加入してもらったのは、バンドにはロマンが必要だと思ったからだ。高校で出会った友人と再びバンドを組むだけで夢がある。バンドは友達と組むのが一番だと思う。もちろん組んでから仲良くなるのもいいのだが、俺たち友達だしバンドでもやろうぜ、というノリが僕には健全な気がする。どこかでずっとビートルズの物語に引っ張られているのだ。遠距離バンドでどうなるか分からないが、雄登にもロックバンドでライヴする快感を一緒に味わって欲しかった。2014年の暮れに、実紗と雄登と3人で名古屋今池のリフレクトスタジオと東山動物園の近くのstudio2462日間練習した。この時に既に出来たばかりの「浮き浮き」を試した。ビートルズの「I Feel Fine」もやった。

         

         

         もう一人のギターとベースには、カルマセーキ時代に一度だけ共演したことがあるスーパーノアのボーカル井戸健人君と、ベースの岩橋真平さんを誘った。2人ともそれぞれの活動があるので、正式加入は出来ないけれど、面白そうなのでサポートで参加してくれることになった。2人と初めて一緒に音を合わせたのも十三のLan Music Studioである。2015年の1月のことだ。「サガポー・ティアモ・ラヴャ」「フェスティヴァル・デイ」「レプリカ」を試してみた。

         

         

         サルバ通りのデビューライヴは、ひょんなことから参加が決まったハードロックカフェのコンテスト予選だった。合格して、アジアで勝ち抜いたら、スペインのフェスに出られるという謎のオーディションだった。僕らは短期間で練習したが、さすがにまだバンドの音は固まっていなかった。コーラスにも無理があったし、コンテストは負けた。しかも初ライヴが電子ドラム、という虚しいデビューだった。

         

         

         その後、改めてちゃんとした音響で、サルバ通りの新曲も合わせて、5月にknaveで再スタートを切った。この頃はまだ、カルマセーキ時代の曲の方が安定感があったと思う。新曲は「浮き浮き」「キンダーガーテン」「Keep On And On」「ジオラマ都市で」「シスター町子」の5曲を披露できた。なぜか久々の「短刀」もやった。

         

         

         このすぐ後に僕は、FootRock&Beerで行われた『ポール・マッカートニー再来日記念!勝手に前夜祭!The Beatles Night』というトークイベントに参加した。ビートルズについて自由に語るだけという乱暴なイベントだ。僕は自分の音楽にどのようにビートルズエッセンスを入れるかという話や、先に書いたような、我慢して聴き続けてジョンの曲を好きになる話などを披露した。その後、雄登とデュオで「All My Loving」「We Can Work It Out」「You Really Got A Hold On Me」をカバーした。こういうスタイルでのライヴも増やせたらいいなと思った。

         

         

         それ以降のライヴは思った以上になかなか決まらなかった。練習も月に1度全員で合わせられたら良い方だった。宣伝できる音源を作りたいということで、「浮き浮き」と「どうかセンセーション」をシングルで出すことに決めた。レコーディングスタジオは、空中ループの和田直樹さんが新設したばかりのstudio INO。和田さんにはカルマセーキのファイナルワンマンでPAもやってもらったことがあった。

         

         

         『浮き浮き/ どうかセンセーション』は完成したが、なかなか披露する機会がなかった。年内には東京で1本、京都で1本出来ただけだった。この頃には、結成当初に抱いた、回数は少なくても身のあるライヴをしっかりするバンドをやれればいい、という考えが変わってきていた。このままではいつまでも本物のロックバンドにはなれないと思ってしまった。もっとライヴをしたい。毎週ライヴをしたいと思うようになった。

         

         

         ロックバンドには色んな形があっていいと思う。人それぞれの生活に合わせたやり方でやればいいし、正解はない。だけど、僕がやりたいバンドはそれではなかった。気づくのが遅かったと言うより、それはずっと変わらないことだった。僕はビートルズみたいなバンドがやりたかっただけなのだ。ビートルズみたいに1+1+1+1=4ではなく、1+1+1+1=∞になるようなバンドがやりたかった。4人が揃って音を出した瞬間に宇宙が出来るようなバンドを。そういう意味で、(あくまで個人的な意見だが)僕にはサポートメンバーを抱えるバンドは向いていなかった。率直に言うと、同じステージで同じライヴをするメンバーが、メンバーに対してお金を払ったり受け取ったりするのに違和感を感じてしまうのだ。

         

         

         そしてバンドはやはり一緒に過ごした時間の長さがものを言うと思う。スタジオで何度も練習して、ライヴの現場で同じ空気を吸って、打ち上げで馬鹿みたいにビールを飲んで、お互いの良いところも嫌なところも全部見て、それでも一緒に転がっていく。生での時間の共有が必要不可欠だ。何をいつまでガキみたいな、夢みたいなことを、と思われても仕方ない。だけど、僕はそういうバンドにこそ本当に心を打たれるし、自分がやるならそういうバンドでありたいと願う。ただ、こればっかりは一人が張り切っても無理な話で、チームの力が必要だ。もちろん、色んな奇跡と、色んな努力も要る。だから、何度も言うが、ロックバンドは儚くて、尊くて、馬鹿で、世界一かっこいいものなのだ。

         

         

         そういう話をサルバ通りのメンバーにもして、みんな思うところがありつつも理解してくれた。そして2016311日にバンドを解体した。解散ではなく解体としたのは、僕だけは残って続けようという意思があったからだ。10年以上共にやってきた実紗もいなくなって、何年かぶりにまた一人になった。メンバーを募集して、何度かお試しスタジオに入った。なかなか上手いようにはいかないものだ。

         

         

         結局、サルバ通りでの最後のライヴ以来、僕は井戸君のソロ(イツキライカ)アルバムのリリースツアーでしかライヴをしていない。井戸君と岩橋さんとこんなにも早く一緒に演奏するとは思っていなかったけど、久しぶりのスタジオは素直に嬉しかった。ギターが下手な僕でも誘ってもらえるなんて、井戸君が僕を友達と思っているからに違いない。やっぱりバンドは友達とやるのが一番なのだ。

         

         

         それと、201610月にライヴハウスではないところでも一度だけライヴをした。特別な友人の結婚式で、一日だけカルマセーキを再結成させたのだ。僕と実紗と洸平と山ちゃんだ。結婚式までに2回だけスタジオで練習した。解散ミーティングより前のスタジオ以来、約2年ぶりだったので、みんなコーラスを忘れたり、歌詞やコード進行を忘れたりしていた。でもすぐに感覚が戻ってくるもので、ライヴでは『秘密計画』と『鍵は開けてある』から4曲、昔のように演奏できた。

         

         

         そのライヴが終わって、僕の中でもう何かが吹っ切れてしまった感覚があった。もうこのバンドを越えることは出来ないと感じてしまった。この先、僕が本当に心からやりたいと思えるバンドは出来ないと。僕は本当は音楽が好きではないのかもしれない。僕は音楽をやりたいと言うより、バンドがやりたいだけなのだ。久しぶりにカルマセーキをやってみて、それを実感した。

         

         

         バンドがないと、曲を作る気分にもならない。もちろん、メロディはよく思いつくのでiPhoneのボイスメモに録音しているけど、それを聴いて、いいねと言って、一緒に演奏してくれる友達がいないと駄目だ。

         

         

         だから、僕はここでサルバ通りの屋号も下ろすことにする。元カルマセーキ、元サルバ通りのただの間瀬聡になる。あえて音楽をやめるとは言わないし、言えない。音楽なんてやめられる類のものではないのだ。いつかまた自分でも凄くいいと思える曲が出来たら、谷尾さんに頼んで録音してもらいたいなと思う。それをまた、今まで僕の音楽を気に入ってくれた人達に聴いてもらえたら嬉しい。

         

         

         僕は今、高校教師になろうと思っている。10年間音楽しかやってこなかったから、お金もないし、何の社会的地位もない。それでも、僕の20代は他の誰にも経験できない、僕だけの最高の10年だった。良い音楽と素敵な人たちに囲まれて、もの凄く貴重な経験をさせてもらえた。この10年があったから、これからも何でもやっていけると思う。オアシスのノエル・ギャラガーがいいことを言っていた。「年をとればたくさんの重荷を背負うだろうし、音楽は人生で唯一重要なものではなくて、数ある重要なものの一つになってるはずさ。」(Twitter, ギャラガー兄弟名言迷言Botより)

         

         

        15. あとがき(「ビートルズと私」としての帳尻合わせ)に続く

        ビートルズと私(間瀬聡)「13. 活動休止、解散」

        2016.12.16 Friday

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          13. 活動休止、解散

           

           

           2013年から『鍵は開けてある』のリリースツアーを開始した。ツアーと言っても、大阪を拠点に少し遠くまで行っては戻るの繰り返しだった。各地でラジオ出演させてもらったり(MBSラジオでは1ヶ月間冠番組をやらせてもらえた)、CDショップに挨拶回りに行ったり、楽しい経験をたくさんした。ただ、遠くの町では、カルマセーキのことを知っている人は少なく、ライヴの動員は虚しいものが多かったのが事実だ。それでも初見の人達が楽しんでくれるのは嬉しいもので、中でも初めて行った福岡のUTREOは、少人数ながら、もの凄い熱気を感じて一番印象深いライヴになった。

           

           

           ツアーの中頃にメンバーと話し合い、ツアーファイナルワンマンの後、どういう活動をしていくのか話し合った。また新しいアルバムを作って、同じようなこじんまりとしたツアーを繰り返すのは嫌だということになった。少し休養期間をとり、個人でやりたいことにトライして、パワーアップしてからまた始めようと。ライヴ活動を休止して、アルバムをリリースしてから、新曲だらけのライヴを再開することに決めた。僕は作曲に集中する時間がたくさんとれたらいいなと考えていた。ちょうど大学時代にトロントに留学して、カルマセーキの次のステップが見えた時のように。しかし、結局この判断は間違っていた。カルマセーキを始めた頃に思っていた、「止まってはいけない」ということが身に沁みてわかるようになる。

           

           

           630日の梅田Shangri-Laでのワンマンは200人近く動員して、ライヴの内容も過去最高で、2009年から始めた自主企画「これがポップミュージックだ!」の集大成的な、素晴らしいものになった。谷尾さんがエントランスに大きな花を贈ってくれた。実は谷尾さんは『鍵は開けてある』のレコーディングの途中から、カルマセーキを離れていた。それまではプリプロも録音も、フライヤーやアルバムのデザインも、ライヴスタッフも全てやってもらっていたのに、突然、意思の疎通が上手くできなくなり、アルバムが完成するまで会うことはなかった。久しぶりに谷尾さんと2人で会って、お互いに色々な誤解が解けてからは今までずっと仲良くさせてもらっている。そんな谷尾さんが花に添えてくれたメッセージは「青春のサウンドトラックをありがとう」だった。お礼を言わなければいけないのは僕の方だった。谷尾さんがいなければ、カルマセーキはここまで成長できなかった。

           

           

           ワンマンが終わってから、僕は地元名古屋に戻った。仕事もせず、クリエイティブニートとして、実家で曲を作っていた。実家では大滝詠一と、ビートルズ・アンソロジーをよく聴いていた。1ヶ月に3曲ずつくらい作って、メンバーとはインターネットでデモ音源のやり取りを続けていた。月に2回くらいは大阪に行って、スタジオでも練習した。メンバーも新曲には満足してくれているようで、再び竹内さんに相談しながら、新しいアルバムのレコーディングを計画していた。

           

           

           それから活動休止中に、僕は遂に本物のビートルズのライヴを見ることが出来た。ポール・マッカートニーの来日公演だ。1112日の京セラドーム、洸平と一緒に二階席上手側から生のポールを見た。昨年、ビーチ・ボーイズの来日公演で感動して泣いた僕は、ポールのライヴでは泣かなかった。あまりにも現役感溢れるロックスターを目の当たりにして、伝説であるということも忘れ、ひたすら楽しんだ。この人は64歳どころか84歳になっても、水も飲まずに元気にロックンロールしているのではないかと思った。リヴァプールやハンブルグのパブでビールを飲みながらビートルズを見た人達と、同じようにビールを飲んでポールを見ている僕がいる。中学生の頃に想像できただろうか。昔のままのアレンジでビートルズの名曲を惜しみなく演奏してくれる。バンドメンバーもビートルズに対する敬意が感じられて素晴らしかった。全員コーラスしながら演奏しているのが最高にかっこよかった。ポールは10代からずっと変わらない。「Yesterday」をギター1本で弾き語りもするし、「Helter Skelter」で絶叫もする。この振り幅もポールだ。改めて、これこそ僕の理想のバンドだと思った。

           

           

           話をカルマセーキに戻す。2014年に新作のプリプロを開始し、アルバム(タイトルは『浮き浮き』に決めていた)のレコーディングの日取りまで決めていたにも関わらず、このままでは『鍵は開けてある』を越えられないのではという話になり、中止になった。それから、間もなくして、洸平からグループラインで脱退したいとの連絡があった。20141014日、梅田の居酒屋にメンバーと野木さん5人で集まり、ミーティングをした。カルマセーキへの思い入れは、洸平が僕の次に強かったと思う。洸平がいなくなったら、カルマセーキは終わると確信した。僕らは泣きながら話し合い、何度も説得したが、脱退は防げなかった。山ちゃんも辞めることになった。メンバーと言えども、人の人生だ。僕の思い通りには出来ない。

           

           

           僕はカルマセーキを解散させたら、自分も音楽を辞めようか悩んだ。Hook Up Recordの吉見さんや、奥(ボウイ)さん、松浦さん、エレクトリックギュインズの前田栄達さんにも相談に乗ってもらって、大阪で朝まで飲んで、始発の近鉄で名古屋に帰った。結局、僕は諦めることを諦めた。実紗はまだ一緒にやると言ってくれたので、2人で新しいメンバーを探した。カルマセーキの曲は、もっと多くの人に聴いて欲しいから演奏し続けることにした。だけど、洸平と山ちゃんなしではもうカルマセーキと名乗れない。かけがえのないメンバーだった。そして、カルマセーキの解散と、その続編であるサルバ通り結成を2015210日に発表した。

           

           

          「14. サルバ通り」に続く

           

          ビートルズと私(間瀬聡)「12. カルマセーキ(2010~2012)」

          2016.12.16 Friday

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            12. カルマセーキ(2010~2012)

             

             

             イオで優勝して賞金100万円を得た。新曲も溜まってきたので、アルバムのレコーディング費用に使うことにした。タイトルは最初から決まっていた。『秘密計画』だ。グリーンズの無料配布CDは、アルバムからのパイロットシングルとして『フェスティヴァル・デイ』を出すことになった。「フェスティヴァル・デイ」に決まるまで、グリーンズでのミーティングは大いに難航した。僕が、歌詞で伝えたいメッセージなんてない、という発言をして、じゃあ私たちは何を応援したらいいの、と険悪なムードになった。実際、僕は歌詞で伝えたいメッセージなどなかった。かっこいいサウンドに、美しいメロディ、そこに面白い言葉がのっていればよかった。ビートルズの曲でもジョンのナンセンスな言葉遊びを気に入っていた。だけど、今はこう思う。ビートルズこそ、たくさんのメッセージを歌っていたし、歌詞が酷い曲はいくらメロディがよくても聴けたものではない。歌は歌詞だ。歌詞こそはすべてだ。ボーカルの声と、いい歌詞がマッチして初めてグッとくるものがある。言葉をずっとサウンドとして捉えてきた僕が、少しずつ、照れ隠しの似非文学的かっこつけ意味深風歌詞から、脱却を図ろうとし始めた時期だった(それでもまだだいぶひねくれていたが。後に出会う竹内修さんには「君の歌詞には逡巡が多すぎる」と言われたほどだ)。

             

             

             3枚目のアルバム『秘密計画』のレコーディングでは色々成長できた。ドラムとベースとアコースティックギターはすべて京都のMothership Studioで録音した。この時期に、カルマセーキの活動において、コムとの温度差を感じるようになり、十三のミスタードーナッツで話し合った結果、コムが脱退することになった。『フェスティヴァル・デイ』のジャケットにもコムはもういなかった。まだ録音していない2曲が残っている段階だった。コムと最後に一緒に演奏したライヴを思い出せない。特別な感じはしなかった。コムは辞める時に、カルマセーキの音楽は好きだから、これからも聴くけど、今後カルマセーキの曲を弾くこともなくなると思うと少し寂しいと言っていた。コムは自分が考えたベースで一番好きなのは「バラード」らしい。曲は「アヴァンギャルド」が好きだとも。僕もバラードでのコムのベースは好きだ。コムはライヴでノってくるとうねうねしながら弾くのがかっこよかった。うねるように歌を邪魔せずに歌うベースラインもコムらしい。いいベーシストで、ナイスキャラで、コムがいなくなることで、バンドの雰囲気は結構変わってしまうだろうという不安はあった。だけど、バンドは正直な気持ちを騙しながらは続けられない。新メンバーを募集しよう。

             

             

             「見放題」という関西のサーキットイベントに出演していた山田祐太郎という人物について、僕ら3人はリサーチした。今は一人で弾き語りをしているシンガーソングライターだが、どうやら以前は他のバンドでベースを弾いていた、という情報を仕入れた。洸平と実紗が、山田さんのライヴを見に行った。そこでライヴ後に話すことに成功した。いい人そうだ、という印象。そこで、今度は僕と山田さんで差し飲みして、口説き落とそうとするも、なかなか上手くいかず、2次会でpara-diceの楽屋に行き、スタッフの安井さんにも熱く語ってもらって、ようやくサポートでの参加を引き受けてもらえたのだ。

             

             

             スタジオでは、グルーヴが出るようにお互い敬語はやめようというところから始まった。山田さんは3歳年上だったが、その日から山ちゃんになった。山ちゃんは面白かった。サポートなのに、初日から「バケツの花」のコード進行を少し変えようと言い出した。控えめなようで、実は熱い人、それが山ちゃんだ。その後も、ライヴを重ねるたびに、山ちゃんのコミュニケーション能力の高さに、僕らは圧倒されていくことになり、どんどん彼が好きになっていった(服装がダサかったので、そこは徐々改善させていった)。結局、山ちゃんはサポートのまま、『秘密計画』では2曲ベースを弾いた。アルバム最終曲の「憧れのまま」と、ANATAKIKOUの松浦正樹さんプロデュース曲「origo」だ。どちらもいいベースだが、まだあまり山ちゃんらしさは出ていない。

             

             

             アルバムのジャケットも、ボローニャ絵本原画展で見つけた青木由子さんに書き下ろしてもらうことが決まり、順調に進んでいた。初のMVを録ることになり、ベースがいないのは絵的に寂しいので、山ちゃんも「もぬけの殻」の撮影に参加してもらった。この時、新しいアーティスト写真を撮ったのだが、山ちゃんが入っているのと、入っていないのと2パターン撮影した。こちらはなんとしてもアルバムリリースまでに山ちゃんを正式メンバーにしたいので、変な駆け引きが続いていたのだ。バンドって難しい。

             

             

             撮影の後日、スタジオ終わりのミーティングでずばり、山ちゃんに加入の意思を問うた。そこでようやく、山ちゃんが正式メンバーになることが決定した。山ちゃん入りバージョンの写真を撮っておいてよかった。ただ、その時は山ちゃんの加入発言のすぐ後に、実紗と野木さんが付き合っている発言があって、完全に山ちゃんのニュースはかき消された。帰りの電車で、「頑張るわぁ」と言っていた山ちゃんが妙に切なげで面白かったのを覚えている。

             

             

             こうしてサードアルバム『秘密計画』は新メンバーを加えた4人体制で、2011223日にリリースされた。初めてタワーレコードでのインストアライヴをさせてもらったのだが、前日に東日本大震災が起こり、忘れられないライヴになった。その後のツアーもキャンセルが続いたり、自粛モードがあったりと色々大変だったけれど、僕らはどんどんバンド感を増していった。山ちゃんという歌えるベーシストを迎えたことによって、カルマセーキのビートルズ化は促進された。今まで以上にコーラスが分厚くなり、ライヴでのコーラスの分厚さは、カルマセーキ最大の特徴になっていった。

             

             

             この時期は前よりもスタジオに長く入るようになっていた。大阪芸術創造館で週に一度、6時間ほど練習した。山ちゃんオススメのボイストレーニングをみんなでやって、コーラスの練習にもより力を入れた。そんな風にして、フェスティヴァル・デイのライヴクオリティも上がり始めた頃、東京でのライヴにスピッツのディレクターをされている竹内修さんが見に来てくれた。ライヴを褒めてもらい、CDを全種類買ってもらってしまった。そしてそれ以降、僕らが東京遠征する際には必ず見に来てくださるようになった。後日、東京のレストランでミーティングして、次のアルバムを一緒に作りたいと言ってもらえた。僕は初めて自分の意思で、自分のお金で買ったCDがスピッツの「渚」だった。初めて自分で電話してチケットを買ってライヴを見に行ったのもスピッツだ。そのスピッツを発掘して、ずっと一緒に音楽制作してきた人に認められて、一緒に自分のバンドのアルバムが作れる。音楽を続けてきてよかったと心から思った。

             

             

             ライヴは本数が増えていった。実紗が会社を辞めたことで、平日にもライヴができるようになっていた。4月にはFM802のヒロ寺平さん主催の野外イベント、New Breezeにも呼んでもらえた。初めて山ちゃんと一緒に立つ大きなステージだった。当日は結構な雨だし、洸平が珍しくギターの弦は切るしで大変だったが、この時カルマセーキを知ってくれた人も多くて、その後もライヴハウスに来てくれるお客さんが増えて嬉しかった。

             

             

             僕らのライヴの評判も少しずつ良くなり、他のバンドのイベントに誘われることも増えたり、テレビやラジオの出演が増えたり、共演者がどんどん豪華になっていったりした。ANATAKIKOUとの2マンツアーも嬉しかった。バンドを始めた時期の対バンを思い出すと、いかに今の自分が恵まれた環境で音楽をやれているか痛感した。それでも、もっと売れたい、もっと多くの人に自分の曲を聴いてもらいたいという気持ちは膨らむ一方だった。

             

             

             『秘密計画』に続くアルバムは、当初キャッチーなポップロックアルバムにしようと話し合っていた。実際、ライヴでも「風のアシスト」や「幻」という、耳障りの良い新曲を試していた。それはそれで受けもよかったのだが、自分達の中では何か物足りないような気がしていた。コーラスを意識した曲作りにシフトして行ったのはいいが、それまでのカルマセーキらしさが圧倒的に足りていなかった。そこでやはり、やりたいようにマニアックなこともどんどんやる路線に舞い戻ることにした。そうして立て続けに出来たのが、「Waiting For You」「サガポー・ティアモ・ラヴャ」「伽藍堂」「若気の至り」の4曲だ。これらはストックしていた曲ではなく、2012年になって自然と湧いてきた。クリエイティブなモードに入ったのかもしれない、と実感した。山ちゃんも粋な曲を作ってくれて、僕はそれに一番自由に歌詞を書けた気がする。「魔の精と迷走」は、売れないバンドマンとして生活している自分へのメッセージソングでもあった。他の曲も僕の中では比較的メッセージ性の強いものになったと思う。これはまさに竹内さんのディレクションのおかげだった。島田洋七が「話し言葉はひらがなだ」と言っていたのをヒントに、「歌詞もひらがなだ」と、耳から入る言葉を前よりも意識して書くようになった。歌詞を書いた時期が短いスパンだったので、アルバムを通して、何となく統一感のある歌詞になったと思う。大きなテーマは「自分次第」「やってみなけりゃわからない」だ。当初、アルバムのタイトルは『V』になる予定だったが、少し無機質過ぎる嫌いがあるので、最終的に『鍵は開けてある』に落ち着いた。アルバムの内容を総括する、良いタイトルになったと思う。音楽的にも竹内さんと何度もやりとりして、贅肉を削ぎ落とし、よりタイトにポップに引き締まった。雄登に紹介してもらった神永大輔さんの尺八もキレキレだった。アルバムを作るたびに、自己新記録を更新している気がして、幸せだった。あとはかっこいいライヴをして、アルバムを売りまくるのだ。4枚目のアルバム『鍵は開けてある』20121128日リリース。

             

             

            「13. 活動休止、解散」に続く

            ビートルズと私(間瀬聡)「11. カルマセーキ(2008~2009)」

            2016.12.16 Friday

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              11. カルマセーキ(2008~2009

               

               

               大学を卒業しても、レコーディングが少しだけ残っていたので、5月まで箕面に住んでいた。実紗が大学に来なくなったので、この頃からカルマセーキの練習は十三のLan Music Studioでするようになった。後にエニクスパルプンテ(現・ユナイテッドモンモンサン)と知り合い仲良くなったスタジオだ。

               

               

               そんなある日、いつものように北千里から阪急電車に乗ろうとすると、見知らぬ番号から電話がかかってきた。「ホットスタッフの○○と申しますが、カルマセーキの間瀬さんでしょうか」と。瞬間的にフジロックだと理解した。手が震えた。電話を切ってからすぐに、メンバーと谷尾さんに「フジロック出演決まりました」とメールした。阪急の車内で、十三に着くまでずっとニヤニヤしていたのを覚えている。興奮を隠しきれなかった。卒業してすぐにこんないいことが待っているとは思わなかった。その日のスタジオでは、仕事帰りの谷尾さんも駆けつけて、みんなでフジロック出演を祝った。幸せな夜だった。

               

               

               レコーディングが終わると箕面にいるメリットがなくなったので、大阪市内に引っ越した。ライヴハウスに行くのが大幅に楽になってよかった。平日は実紗が仕事なので、この頃は土日祝日にだけライヴをしていた。

               

               

               フジロックに出るのはもちろん、見に行くのも初めてのことだった。学生時代は毎年のようにサマソニには行っていたが、フジロックは大阪からは遠く、学生には少し高価でセレブパーティーのような印象を持っていた。憧れのフェスに行けることで、正直ピクニック気分は拭いされなかった。

               

               

               僕らはバンドメンバー4人と、スタッフに谷尾さん、そして芳充も連れて、楽器を持って特別夜行列車「星空トレイン」に乗って新潟苗場に向かった。のちに親しくなる、ぴあ関西のライター奥ボウイ昌史さんが、この時のことをよく覚えていてくれる。なにしろ、客に混じって夜行列車に乗って出演するバンドは僕らしかいなかったらしい。大体は車で来るのだそうだ。僕らはそれまで大阪と京都の、電車で日帰り出来るライヴハウスにしか出演したことがなかった。初の遠征ライヴがフジロックだったので、わからないことだらけだったのだ。

               

               

               星空トレインは楽器に席を占領されて、上手く眠れなかった。明け方、越後湯沢駅に着いてから、予約していたペンション、みつまたロッヂに行って、荷物を置いて一息ついた。夜はみんなで雑魚寝できるし、楽器も濡れないし、朝飯も付いているし、最高の宿だ。

               僕らの出番は2日目だったので1日目は多いに満喫した。ルーキーアゴゴーゴーのステージも確認して、明日の作戦を練った。そして、2日目は早めにロッヂに戻って、機材を持ってシャトルバスに乗って本番を迎えた。

               

               

               結果は、僕らの経験不足が如実に表れた。外大の夏祭りとはわけが違う。世界レベルのロックバンドが集う夏祭りなのだ。もちろん、その時は興奮して楽しかったが、フジロックでは何一つ残せなかったと思う。出るのが早すぎた。友達も苗場まで応援に来てくれて嬉しかったが、もっと頑張らないと、という気持ちで大阪に戻った。大量に持ってきた『カルマセーキの素敵』を郵便で送って。

               

               

               本当にきつかったのは、フジロックの後からだった。業界の関係者がライヴを見に来ることが増えたが、僕らのライヴのレベルは低いままだった。一つだけ声をかけてくれたレーベルがあったが、若かった僕らはその人の言っていることを理解できず、結局何も繋がらなかった。その年のFM802主催のミナミホイールに出演するも、この時ほど惨敗を味わったことはないかもしれない。僕らの前に出演していたDWニコルズは素晴らしかったが、僕らのライヴは惨めなまでに酷かった。いつまでも学生ノリが消えていなかったのかもしれない。痛々しくて、どうしたらいいのかわからなかった。唯一よかったことは、後に外大の先輩でもあると分かる、802DJの野村雅夫さんと知り合えたことだ。雅夫さんは面識もないのに、後輩だとも知らず、僕らの「短刀」を聴いて、オススメコメントを書いていてくれたのだ。雅夫さんにはそれ以降もライヴを見に来てもらったり、番組に呼んで頂いたり、とてもよくしてもらった。

               

               

               それまで人生で挫折を味わったことのなかった僕が、初めて迷走していた時期かもしれない。もう、キモさやエキセントリックなパフォーマンスで誤摩化すのはやめにしようと思った。ライヴでスーツを着るのもやめた。ギターもほとんどコードストロークしかしていないし、エフェクターも使わなくなってきたので、エレキギターからアコースティックギターに持ち替えた。

               

               

               しばらく試行錯誤を繰り返しながら、次第にフォークロック寄りのサウンドに固まっていった。メンバーのコーラスの比重も少しずつ増えていった。そうして、「Big River」や「デイドリーム」がライヴ定番曲になっていった。

               

               

               2009年にはまたオーディションライヴに参加するようになる。6月にはグリーンズ主催の「ぐっ」というイベントで優勝した。11月には関西最大級のコンテスト「イオ・ミュージック・トライ」で優勝。その間には3曲入りのシングル『Big River』をリリース。ようやく、フジロックからの巻き返しが出来てきたなという時期だった。

               

               

               この年は盟友(あえてそう呼ばせてもらう)モーモールルギャバンと共演する機会が多かった。ホームグラウンドでもあるpara-diceのこけら落としライヴから始まって、レコ発イベントにも出演してもらい、イオでも、共に投票枠から決勝に勝ち上がって戦った。同じ小さいライヴハウスでやってきた仲間が、ずっとかっこいいバンドでいてくれて、そんなバンドに、カルマセーキが優勝なら認める、おめでとう、と言われて本当に嬉しかった。『Big River』の流通をきっかけに、野木健次さんと出会ったのもこの時期で、それからずっとスタッフとして一緒に活動していくことになる(メンバーの家族にもなる)。僕らがイオで優勝した時、野木さんも、グリーンズのカルマセーキ担当だった荒井さんも、友達も家族も関係者もみんな、自分のことのように喜んでくれた。母を含め、泣いている人たちまでいた。いつの間にか、応援してくれる仲間が激増していた。

               

               

               『Big River』からイオまでの時期で明らかに変わったことがある。僕らはどちらかというと斜に構えた音楽性だったが、自信を持って「応援してください」「どうか聴いてください」と言えるようになった。コンテストでウェブ投票してもらうために、しつこいくらい宣伝したし、それは投票枠1位という結果になってちゃんとあらわれた。カルマセーキがこんなにガツガツ宣伝するバンドだとは思わなかったと言われたが、元々夏祭りに出る頃はガツガツしていたのだ。初心忘れるべからず。この頃から、家族も親戚を巻き込んで応援をしてくれるようになった。実家に帰ると、車で自分のCDがかかったりして、妙な気持ちになったが、真剣に音楽をやっていることが伝わってよかった。胸を張って自分の音楽を聴いてもらえるようになった。好きなことこそ、神経をすり減らしてまで追求する価値のあることだ。そして、それはこの後のアルバム制作で痛いほど身に染みることになる。

               

               

              「12. カルマセーキ(2010~2012)」に続く